話題の本『小山田圭吾 炎上の「嘘」』が考えさせられる・・・感想&レビュー!①

レビュー

中原一歩著、『小山田圭吾 炎上の「嘘」』を読みました。
よく取材をされて書かれた力作だと思います。
そして、とても複雑に様々なことが絡み合って起こってしまった問題なのだと感じました。

本のタイトルにもある、「炎上」、「嘘」以外にも、「いじめ」、「メディア」、また問題となった発言の経緯や時代背景についてなど、語るべきテーマがたくさんあります。
とてもひとつにまとめきれないので、テーマごとに何回かに分けて、私なりの考えをブログにあげていきたいと思います。

尚、本を読んでないと分かりづらいくだりや、ノンフィクション作品と言えど、ネタバレ的な内容もありますのでご了承ください。

はじめに

まず、今回の騒動のきっかけを作った、1994年『ロッキング・オン・ ジャパン』と、1995年『クイック・ジャパン』に掲載された小山田圭吾氏のインタビュー内での発言(障がい者へのいじめ)について、個人的な話しから始めたいと思います。

おそらく多くの方々と同じように、リアルタイムではなく、ネットの情報で、私はこの問題の記事を知りました。炎上した2021年から数年前のことです。

90年代後半、私は『ロッキング・オン・ ジャパン』と『クイック・ジャパン』を愛読していた時期もありましたが、この記事の存在は知らず、掲載から数年後、問題の記事を偶然ネットで発見した時は大きな衝撃を受けました。
ただ、90年代当時の小山田氏は、ちょっと斜に構えた皮肉屋っぽいイメージが私の中ではなんとなくあったので、「あー、やっぱこんな奴だったのね」という、若干の許容があったことは確かです。

とは言え、やはり小山田氏に対しては強烈な嫌悪感を覚え、「こんな奴がのうのうと生きてていいのか、作った音楽が世の中に溢れてていいのか」と怒りにも似た感情を持ったこともまた事実です。

そして時を経て、2021年にこの記事が世の中に明るみになった当初は、正直、少なからずの制裁は受けるべきだくらいに思っていました。「報いを受けるべきだ」と。

ところが、そんな私でさえ、日を追う毎に加熱していくSNSとメディアの“小山田叩き”に、違和感を覚え始め、「いやいや、やり過ぎだろ・・・」と小山田氏を擁護(という言葉が適切か分かりませんが)したくなる気持ちが強くなっていきました。

やがて小山田氏がオリンピックの音楽担当を辞任し、数か月後に、『週刊文春(2021年9月23日号)』に掲載された、中原一歩氏によるロングインタビューにて、小山田氏の口から、当時(94年、95年)の記事内での発言の釈明が語られます。

私はこれを読み、小山田氏へ対する見方も変わりました。人によっては様々な意見もあるかと思いますが、個人的には腑に落ちる内容でした(詳しくはまた別の機会に書きます)。
音楽活動を再開した時には素直に嬉しく思いました。

少し長くなってしまいましたが、そんな私が読んだ『小山田圭吾 炎上の「嘘」』の感想と、そこから考えたことなどを書いてみたいと思います。

「炎上」はなぜ起こる?

きっかけは小山田氏を糾弾するSNSのあるひとつの投稿でした。
本書の中では、その投稿が火種となり大炎上していく過程と、その渦中の小山田氏の状況が事細かに時系列で書かれています。

いつ、誰が使い始めたのかは分かりませんが、今では一般的になった、「炎上」という言葉は、正にその通りで、みるみるうちに燃え拡がる炎は、簡単に消すことが出来ません。本書を読むとその恐ろしさがリアルに伝わってきます。

批判を受けての声明文や釈明は、内容によっては更に反発を強くする可能性もあります。
一度非難を浴びると何をやっても叩かれる。「行くも地獄、帰るも地獄」。そんな言葉が浮かびます。

小山田氏がどんどん追い詰められていく様子が克明に描かれ、私も本書を読みながら、まるで当事者になったかのような感覚に陥りました。

「正義」の恐さ

その中で私が一番恐ろしいなと感じたのは、「正義と言う名の暴力」です。
「炎上」はその要素を多分に含んでいる気がします。

「あいつは悪だ!」となんの疑いもなく、「正義」が振りかざされます。
なんせ振りかざしているのは「正義」ですから何をやってもいいんです。
“アナタハマチガッテテワタシハタダシイ”
前述した、“「こんな奴がのうのうと生きてていいのか、作った音楽が世の中に溢れてていいのか」と怒りにも似た感情を持ったこともまた事実です”という私の感情は正にこれです。

例えば、戦争は「悪」対「悪」の争いでしょうか?
それとも「悪」対「正義」の争い?
違いますよね、「正義」対「正義」の争いです。

「正義」というものを武器にしてはいけない。
上手く言えないのですが、私はそんな風に思います。

小山田氏はそんな数えきれないほどの「正義」という名の銃弾を浴び、
やがて倒れて動けなくなっても尚、その銃弾は止むことなく撃ち込まれました。

「『正義』であれば何を奪ってもいいんですか?」
そんな問いかけが心に浮かびました。

まとめ

「炎上」について、本書を読み感じたことを書いてきましたが、これは「炎上」が起こってしまうメカニズムの数あるうちのあるひとつの側面に過ぎません。
本書の中で小山田氏は、「コロナ禍の人々の鬱憤が、自分の記事をきっかけに一気に爆発してしまったのではないか」という話しもされています。これも一理ある気がします。

市井の人々の個人的な感情や思いが“可視化”されてしまうのがSNSです。
それぞれの言葉が、それぞれの言葉に引っ張られ、それはやがて膨張し、燃え盛る炎へと形を変えていきます。

「炎上」についてはまだまだ書くことがありそうです。

ひとつ補足をしておきます。
小山田氏の炎上に関しては、未然に防げる機会が何度もありました。
94年、95年にそれぞれ記事が出た時、その後、ネットでその記事が拡散された時。
どこかのタイミングで、謝罪、並びに記事の内容に明らかな誤りがあることをきっちりと訂正しておけば、2021年の炎上はありませんでした。
小山田氏と事務所の危機管理の甘さ(未熟さ)が間違いなくあったのだと思います。
その点は、本書の中でも指摘されており、小山田氏とそのスタッフたちも自覚をしています。

それにしても「炎上」は、皮肉にも、小山田氏が非難された原因の「いじめ」とそっくりだとつくづく感じました。そして思いました。いじめてる奴がいじめを語るなよと・・・。

ってこれもまた私が振りかざしてる「正義」でもあるので、難しいですね。
気をつけなければいけません。

時間が経って考えや認識が変わることがあるかも知れませんが、
とりあえず今、読了後間もない中で私が感じたことです。
「いじめ」、「メディア」、などについても引き続きこのブログで書いていきたいと思います。

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