話題の本『小山田圭吾 炎上の「嘘」』が考えさせられる・・・感想&レビュー!③

レビュー

①でも書いた通り、2021年の小山田氏の炎上は、本当に様々な要素が幾重にも重なっており、
もつれた糸をひとつひとつ解きほぐすような感覚で本書を読み進めました。

レビューを書くにあたって、あれこれ考えていたのですが、あまりにも視点が多すぎて(だからこそ興味深いのですが)、とっちらかりそうなので、もういっそのこと、とっちらかったまま投稿します・・(笑)

ということで、『小山田圭吾 炎上の「嘘」』レビュー第3弾(最終)は、
本書を読み、私の中で出てきたキーワード「時代」・「過去」・「いじめ」について、感じたこと、考えたことを書いていきます。

「時代」について

問題になった小山田氏の記事は、炎上した年から遡ること27年前のものです。
まさか27年後に掘り返され、ここまでの大きな問題になるとは、当時、夢にも思わなかったでしょう。雑誌というものは、読まれたら捨てられるもの。もしくはコレクションとして個人が所有するものです。
インターネットが一般的に普及し始めるのがこの記事の翌年。SNSの概念すらない時代です。
この小さなインタビュー記事が、よもや日本の国政をも巻き込む大騒ぎになろうとは、誰が想像できたでしょうか。

また、90年代はサブカルチャーというものが流行っており(矛盾してますが)、メジャーでもポップでもないものが、意識の高い若者に受けていました。いわゆる“尖った感覚”です。
94年当時、あのような内容の記事が許されてしまっていた要因のひとつとして、正にそのような時代背景が下敷きとしてあったこと、更には、本書でも語られていますが、小山田氏自身が、新しいキャリアをスタートさせるにあたり、敢えて露悪的なキャラクターを自身で作ってしまっていたことなどが、少なからずあったと考えられます。

94年の記事も2021年の炎上も、ある意味、“それぞれの時代が生んだ産物”なのかも知れません。

個人的な肌感覚として、世の中の価値観や倫理観がこの数年間で目まぐるしく変わった気がします。
それは今なお続いていて、そこへついていけない人たちが、標的にされ、ふるい落とされていっています。

以前より先が読めない時代になってきたのは間違いなさそうです。
2021年の炎上も、その渦中に見舞われた大事故だったとも取れるのではないでしょうか。

「過去」について

所謂著名人と呼ばれる方々は、我々一般人よりも、はるかに言動に気を使います。
世間への影響力を考えると当然のことです。

SNSで誰でも気軽に情報の受発信ができるようになりましたが、その管理の仕方については、2024年現在、まだまだ過渡期の段階です。

とまあそんな世の中において、著名人の方々は本当に大変だと思います。

過去に犯した罪を償った後でも関係なしに、今、叩かれる。
もうその当時とは考え方も振る舞いも変わっているのに、今、叩かれる。
卒業アルバムを引っ張り出され、「顔が変わった!」なんて騒がれる。

過去の言動がずっとつきまとうのです。
過去の自分は今の自分ではないのに。

ちょっと想像してみてください。
例えば、友達とお酒の席でポロっと話したことを持ち出され、「あいつはこんなひどいことを言ってた」だとか、例えば、学生時代のクラスメイトに、「あいつに昔こんなひどいことをされた」だとか、ある日突然、世間に晒されるのです。不特定多数の人が目にするSNSという媒体で。雑誌やテレビでも取り上げられるのです。
おそろしいことだと思いませんか?
自分の過去の言動にまで責任を持たないといけないのです。

私も今考えると恥ずかしくなるような言動をたくさんしてきました。
考え方も180度変わった部分もあります。
傷つけてしまった人もいます。そして申し訳ない気持ちになることが今でもあります。

でも世間はそんなこと知ったこっちゃないんです。

小山田氏は本書のインタビュー(『週刊文春(2021年9月23日号)』でも掲載された、騒動直後に行われたもの)の中で、問題の記事のことについて詳細を語っています。
小山田氏の謝罪声明文にもあった「記事内の事実でない部分」を明らかにし、また「事実としてあった部分」も正直(と私は思いました)に述べています。

「事実としてあった部分」に関しては、具体的に二つあげており、それぞれ小学生、中学生時代に突発的にしてしまった行動だったとし、相手への謝罪をしています。
当然許される行動ではまったくないのですが、私は、小山田氏の釈明を読んだあとは、彼をそこまで糾弾する気持ちにはなりませんでした。

もうひとつ、小山田氏の罪があるとすれば、学生当時の「いじめ」の話しを、悪びれることなく面白おかしく、当時のインタビューで話してしまったことだと思います。
これについても小山田氏は反省の弁を述べています。

ですので、問題の記事は、
①学生時代にいじめをしていたこと、
②しかもそれが障がい者へのものだったこと、
③そしてそれを悪びれることなく雑誌で語ったこと、
主にこの3つが批判の対象になっており、記事を読んだ不快さもそこからくるものだったと思います。
私もそうでした。「障がい者をいじめていた上に、それを笑いながら話すなんて人間じゃない!」と。

そして、この釈明インタビューを読み、私が感じたことは、「知ること」の重要さです。
これはあくまで私の感想なので、それでもまだ彼を許せない方もいるかと思います。
ですが、やはり、小山田氏の学生時代や、当時のインタビュー時にその場にいなかった人間が、表面的な情報だけで物事を判断し、何も知ろうともせず、一人の人間を罰するというのはとても危険なことだと私は思います。

しかもこれはどれも「過去の小山田圭吾」です。
「今の小山田圭吾」はどこにもいません。

知る気もないし許す気もないって最低じゃないでしょうか?
ただ、そう思うなら、「許す気もない人」のことも「知らなければならない」のかも知れません。

「いじめ」について

正直、「いじめ」はなくならないです。どんなに諭してもやる奴はやります。
大切なのは、「いじめ」を受けた時にどう対処していくかということではないかと思います。
これは子供も大人も同じです。

最初の投稿でも書きましたが、小山田氏が2021年に受けたSNSを中心とした誹謗中傷も、ある種の「いじめ」です。この3年だけ見ても、2024年現在、更に“SNSいじめ”が加速しいる気がします。

SNSはまだまだ日の浅い文化です。これからもっと厳しいルールが課せられていくと思います。
また、炎上に巻き込まれた場合の対処法も、特に芸能界と呼ばれる世界では、明確になっていくのではないでしょうか。

SNSでの言葉の攻撃は、殺傷能力の高い、とても危険な武器です。
もっともっと自覚を持っていただきたい。
偉そうなことを言ってしまいましたが、自戒も込めて本当にそう思います。

まとめ

著者の中原氏がXでも投稿していましたが、まだ追いきれず、作品としては不完全燃焼の部分があったようです。
実際そうであったにしても、私には十分読み応えのある内容でした。

ものすごい数の、抑えきれなくなった人間の感情が可視化されてしまうSNS。
自分というものをしっかりと持って生きていかなければいけませんね。

本書に少しでも興味のある方は、読んで損はないと思います。
SNSの問題を解くカギが隠されていると私は感じました。

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