『3年B組金八先生』などで知られる、脚本家の小山内美江子さん(94歳)が、老衰のため、2024年5月2日に亡くなりました。
『3年B組金八先生』は多くのスターを輩出しただけでなく、中学生の抱えるリアルな問題を題材に取り上げ、放送当初から社会現象と言えるテレビドラマとなりました。
小山内美江子さんのプロフィール・経歴、夫や子供についてをまとめてお伝えします。
小山内美江子 プロフィール
■本名:笹平 美江子(ささひら みえこ)
■生年月日:1930年1月8日
■出身地:神奈川県横浜市鶴見区
■最終学歴:鶴見高等女学校(現在の鶴見大学附属高等学校、学校法人総持学園)卒業
■職業:脚本家
脚本家となるまでの経緯
高校卒業後の1951年、映画のスクリプター(記録係)となります。
元々は映画監督を志望でしたが、当時は”女性では監督は無理だ”と言われていたために、撮影現場で監督の隣にいられるスクリプターという職を選びます。
結婚、妊娠、長男出産の後に脚本家に転じます。
1962年2月10日放送、NHKのテレビドラマ『残りの幸』が初めて脚本を手掛けた作品となりました。
脚本を手掛けた主な作品
■連続テレビ小説 マー姉ちゃん(NHK)(1979年4月~9月)
■連続テレビ小説 本日も晴天なり(NHK)(1981年10月~1982年4月)
■3年B組金八先生シリーズ(TBS)※第7シリーズ(前半)(2004年)まで
■大河ドラマ 徳川家康(NHK)(1983年)
■大河ドラマ 翔ぶが如く(NHK)(1990年)
3年B組金八先生降板の真相
2004年放送の『3年B組金八先生 第7シリーズ』を最後に脚本の執筆にはあたりませんでした。
この、『3年B組金八先生 第7シリーズ』は、前半のみの担当で、途中降板しています。
理由としては、製作したTBS側と小山内さんとの間の行き違いや確執が表面化したことによるもので、「一方的な解雇」であったと小山内さんは述べています。
やはり、あれだけ長く続く人気ドラマとなると、携わる人が増えていく分、円滑に進めるには難しいことも出てくるものなのですね。少し残念なお話しです。
小山内さんはその後、2005年に『3年B組金八先生』への思いを綴った『さようなら私の金八先生 25年目の卒業』という本を出版しています。
夫について
小山内さんは、映画監督を目指し、通い始めた映画学校で知り合った男性とご結婚をされています。
女優志望だった女性を含めた3人での共同生活をしていましたが、女優志望の女性が実家に戻ることになり、その流れで共同生活中のその男性と結婚をすることになったそうです。
夫となった男性も映画監督を目指しており、助監督などをして結婚生活を過ごしていましたが、スクリプターとして働いていた小山内さんとはすれ違いの生活が続きます。
その後、脚本家として歩み始め、子供を出産したタイミングで、小山内さんは離婚に踏み切ります。
旦那さんも監督志望ということで、収入もかなり不安定だったようです。
約10年間の結婚生活でした。
小山内さんは1962年に出産、離婚をしてから、生涯シングルマザーとして脚本執筆を生業として働き続けました。
当時としてはかなり勇気のいる選択だったと思いますが、同時に逞しさも感じますね。
金八先生という愛のこもった作品が生まれた理由が分かる気がします。
子供について
小山内さんのお子さんは、俳優でご活躍する利重 剛さんです。
名バイプレイヤーとして『半沢直樹』他、数々の映画やテレビドラマにご出演されています。
利重さんは、俳優のみならず、脚本家・監督としても、いくつもの作品を手掛けられています。
こちらはお母さんの遺伝子が受け継がれているようですね。
小山内さんが、第1シリーズの『3年B組金八先生』の執筆を担当することになった当時、
利重さんはちょうど劇中の生徒たちと同じ年ごろで、小山内さんから意見などを求められたそうです。
また、利重さんの奥様は、元プリンセスプリンセスのキーボードを担当していた、今野登茂子さんです。こちらはあまり知られていないかも知れません。
今回の訃報は、利重さんのHPからの報告となりました。
まとめ
『金八先生』のみならず、NHK朝ドラや大河ドラマなど、まさに国民的な作品を手掛けられた小山内さん。
晩年はNPO法人の代表理事としてカンボジア各地に校舎を建設し、私財も投じられていました。
『金八先生』にいたっては、テレビドラマという枠を超え、日本のあるひとつの文化を作ってしまったと言っても過言ではないでしょう。
私たちにに多くの贈り物を届けていただいた、小山内美江子さんのご冥福をお祈りいたします。
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